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お伊勢参り豆知識

二見という地名の由来

二見という地名の由来

伊勢神宮(内宮)から流れてくる五十鈴川は、二見を挟むように、東西二手に分かれて伊勢湾に注がれています。このことから、二見という地名は、〝二水(ふたみ)〟に由来すると思われます。いつからか、それが景勝地ゆえに何度も振り返り見る「二見」に変わり、『その昔、倭姫命がこの地に寄られた際、その美しさゆえに二度振り返りご覧になったため』と言われるようになったのです。

二見浦を形成する三大要素

二見浦を形成する三大要素

1.興玉神石と太陽信仰

夫婦岩(めおといわ)のある岬は立石崎と呼ばれ、古来、神の世とつながる神聖な場所と信じられてきました。
名の通り、夫婦のように寄り添う夫婦岩は、興玉神石の門石(鳥居)です。夫婦岩の間に張られている大注連縄は、神の世と俗界とを分かつ結界といわれています。
ご神体である興玉(おきたま)神石は、東の果てにある神々の国・常世の国からやってくる神が、最初に寄り付く聖なる岩とされています。神々は、興玉神石により下界によみがえるとされました。人々は、東の空が輝く日の出の瞬間に、神が太陽としてよみがえる姿を感じたのでしょう。夏至には、夫婦岩の間を通した神石の真上から、一年で一番力強い太陽が昇ります。
伊勢神宮の別宮・伊雑宮では、夏至の田植えという伝統を守っています。伊勢の米どころ・御絲(みい)のお百姓さんが、今でも田植えの前後にお参りに来るように、立石崎は、古くから五穀豊穣を願う太陽信仰の場所でした。そして、それは日本民族の先祖神である、「天照大神」への信仰にもつながるのです。

2.立石浜と垢離

最近まで、夫婦岩のある岬が立石崎、夫婦岩は立石と呼ばれていました。夫婦岩周辺の浜を立石浜といい、常世の国から打ち寄せる波が最初に届く、「聖なる浜」と信じられてきました。 神仏に参拝する時、水を浴びて身心を清めることを垢離(こり)と言い、立石浜は、神宮の垢離場とされてきました。現在でも、神領民は正式に両宮を参宮する時は浜参宮と称し、この浜で身を清めるのが習わしです。そして、この禊(みそぎ)の浜が、1882(明治15)年、最初の海水浴場開設につながったのです。

3.二見と製塩

倭姫命(やまとひめのみこと)が現在の伊勢神宮の地に向かう途中、二見浦に立ち寄った際、佐見津日女命(さみつひめのみこと)が出迎え、堅塩を献上したといわれています。以来、二見は伊勢神宮の塩を焼いていくことになるのです。そして、その佐見津日女命をお祀りしているのが、表参道の南にある堅田神社。昔は、堅田神社の前(現在の支所の裏)あたりまで海が入り込んでおり、その周辺で盛んに製塩が行なわれていました。立石崎への参拝者が通る道筋には、塩を焼くための塩屋の一つがあり、その脇で茶店を始めたのが、二見浦の旅館街の始まりです。

夫婦岩とは

夫婦岩とは

安政の大地震で海中に没したご神体・興玉神石の鳥居の役目をしている、夫婦岩。より大きい男岩は立石と呼ばれ、高さ9メートル、周囲約40メートルで、女岩は根尻岩と呼ばれ、高さ3.6メートル、周囲約9メートルあります。根尻岩は、1918年の台風で倒れ、その後修復固定されました。この両岩を「夫婦岩」と呼ぶようになったのは明治以降のことで、それまでは「立石」と呼ばれていたのです。今でも壮年以上の地元の人々は、愛着をこめて「立石さん」と呼んでいる人も少なくありません。

二見興玉神社とは

二見興玉神社とは

立石浜にある二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)は、1897(明治30)年に、江村・大江寺の鎮守神、興玉社をこの地に移転神遷したものです。はじめは、茶屋が氏神・三宮(しゃぐ)神社の境内社でしたが、1910(明治43)年3月末日をもって両社を合併し、無格社・二見興玉神社と改称しました。
祀られているのは、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の道案内を務めたとされる猿田彦大神で、古来、交通安全、善導の守護神として、広く信仰されています。
また境内には、海の神様・綿津見大神(わたつみのおおがみ)をお祀りしている龍宮社があります。1792(寛政4)年5月15日、大風水害に襲われた江村は、多くの死傷者と建物被害に見舞われました。そこで大江寺住職尊実和尚は、海神の憤りを鎮めるため竜神を江川河口にお祀りし、これが現在の二見興玉神社境内東側の位置に移転され、龍宮社と呼ばれるようになっています。 そして旧暦5月15日、郷中施(ごじゅうせい)と称して、村民は仕事を休んで昼食を共にしながらその日をしのぶ習慣ができ、それが現在まで続いています。
二見興玉神社がある場所は、従来からの太陽の恵みと身心の再生を願う太陽信仰と禊(みそぎ)の場でもあり、sそれが本来の二見浦の歴史的存在意義だったわけですが、そこへ猿田彦大神と綿津見大神が寄り集まって、現在の二見興玉神社が成り立っているというわけなのです。

二見かえる(蛙)とは

二見かえる(蛙)とは

明治の中頃まで、夫婦岩(立石)は海中の興玉神石及び日の出の遥拝所として、正面に大三方(だいさんぽう)が置かれていました。その三方の中に小注連縄やお供え物と一緒に蛙が供えられていました。なぜ蛙がそのように扱われるかは諸説がありますが、夫婦岩の東方に見える飛島に伝わる白蛇伝承や、昇る朝日を竜神にたとえた信仰等により、蛙をお供えするようになったのではないかと思われます。
そして、興玉神社の祀神でもある猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)が天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと・天照大神の孫)の道案内をされたという神話があること、さらに蛙の語呂が「無事帰る」につながることなどと相まって、いつしか蛙が「猿田彦大神のお遣い」のように独立して扱われるようになっていったものと思われます。
その後、祈願の際、また願いが叶ったお礼に蛙の置物が奉納されるようになり、現在では、「無事帰る」「落とし物や出ていったお金が返る」などという語呂合わせで、お守りとして親しまれるようになっています。また大注連縄奉曳に先立って、「二見かえる音頭(子供かえる踊り)」が行われます。これは二見浦のマスコット的存在である「二見かえる」に由来する伝統芸能です。

御塩殿(みしおどの)とは

御塩殿(みしおどの)とは

二見の海岸沿いにある社殿で、伊勢神宮内宮の所管社の一つです。御塩殿の境内では、伊勢神宮に供えるための「御塩」が、今も昔ながらの製法で作られています。五十鈴川の河口付近にある「御塩浜」で、毎年土用に干満潮の差を利用して濃い塩水をとり、それを境内の御塩汲入所(くみいれしょ)に運び、その塩水を塩焼所にて鉄の平釜で焚き上げて荒塩にします。さらに御塩殿で三角形の土器につめて焼き固め、堅塩(かたしお)にします。

大注連縄の調整
(注連縄打ち)とは

夫婦岩に張られる大注連縄作りは、江区会所前で年3回行なわれています。大注連縄は、全国からの御奉献と、氏子の方々の手によって調整されます。各組から当番が一人出て、朝から藁を集め、縄作り熟練者たちの応援を得て、昔ながらの手法で5本作り上げます。
特に「伝統行事二見大祭しめなわ曳」(7月初旬)を前にした時期は、「名勝二見浦 夫婦岩大注連縄の会」も加わって大々的に行われます。特別な道具を使ったり、独特の掛け声「ゾーエイ」を掛け合ったりして作り上げます。この掛け声は、神社仏閣などを建てることを指す「造営」という言葉に由来していると思われます。

伊勢の家々を守る注連飾り

伊勢の家々を守る注連飾り

伊勢の町を歩くと、家々の門口に注連飾りが掲げてあるのが目につきます。中央に「蘇民将来子孫家門」あるいは「笑門」「千客萬来」などと墨書きした木札が付き、左右にシデやウラジロなどを飾った太い注連縄です。正月の注連縄飾りは、普通は松の内が過ぎればはずすのが一般的ですが、伊勢志摩では、一年間かけたままで過ごします。
〝蘇民将来伝説(そみんしょうらいでんせつ)〟にちなんだこの風習は、「私の家は蘇民の子孫の家ですよ」と示すことにより、家内安全の祈りを込めた「厄除け」のおまじないなのです。

【蘇民将来伝説】

“その昔、この地を訪れた須佐之男命(すさのおのみこと)に、貧しいながらも慈悲深い蘇民将来が、一夜の宿を貸した。ミコトは旅立つ時、今後は門符を門口にかけておけば、子孫代々疫病から免れると言い残した”
蘇民将来の物語は、『備後風土記』(*1)や『参宮名所図絵』(*2)に残る記述では、須佐之男命が蘇民の家に泊まったと伝わっており、『牛頭天王儀軌之事』(*3)では、牛頭天王(こずてんのう)が蘇民の家に泊まったとされています。数多くの伝承では、スサノオノミコトと牛頭天王は同じ人物であるといわれているのです。

*1…新編日本古典文学全集『風土記』〈小学館〉
*2…〈臨川書店〉
*3…地元松下地区・町有形指定文化財. 1620

魔の入る余地なし!
セーマンドーマン

セーマンドーマンまたはドーマンセーマンとは、三重県志摩地方(現・鳥羽市と志摩市)の海女が身につける魔除けです。磯手拭や襦袢などに、星形の印(セーマン)と格子状の印(ドーマン)を貝紫色または黒糸で記し、海での安全を祈願します。上着やメガネなど、海女の用具全般に記され、また、漁夫のふんどしに記されることもあります。
星形は一筆書きで元の位置に戻ることから、魔物の入り込む余地がなく、また海女たちの口伝に寄れば、元の場所に戻る=無事に戻ってこられるという祈りを込めたともいわれ、格子は多くの目で魔物を見張るといわれます。

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